君と目指したもの

「茜、大丈夫か!?」
 声とともに勢いよく開けられたドアがぎぃ、と悲鳴を上げる。
 転がり込むように室内に入ると、ベッドに腰掛け、窓から空を見上げる少女の小さな背中が目に映った。
「あのね、ここは病院なんだから静かに……ぷぷっ」
 少女は振り向きざまに言いかけて笑いをこらえる。
「何だよ、何かおかしいところでもあるか?」
「おかしいも何も……ボタン、掛け違えてるわよ」
 少女に指摘され、慌てて見ると確かにボタンを掛け違えている。
「あのなぁ……心配して来てやったのに笑うんじゃねぇよ」
「あはは、ごめんごめん」
 へらへらと笑う彼女を見て、はあ、と小さくため息をついた。
「それで……茜、怪我は大丈夫なのか?」
 ベッドの側に置かれた椅子に座り、尋ねる。
「あー……怪我ね……」
 落とされた視線の先には厳重に包帯を巻かれ、がっちりと固定された右足首があった。
「骨折しちゃったみたい。大事な時期なのに、馬鹿よねー私」
 変わらずへらへらと笑う茜だったが、どこかぎこちなく見える。
「階段から落ちたって聞いて心配したんだからな。無理して笑わなくていいから」
「清司……」
 清司の言葉に、一筋の涙が彼女の頬を伝った。
 開け放たれた窓から木漏れ日が射し込み、熱を持った風が吹き込むと真っ白なカーテンがはためく。
「それ、治るのにどれくらいかかるんだ?」
 茜の様子が落ち着いてきたのを見計らってそう尋ねる。
「完治するまでにだいたい二、三ヶ月はかかるって」
「そっか……結構かかるんだな」
「うん……様子を見るために少しの間入院しなさいって先生が言ってたわ。だから、ごめん……最後の大会なのに、サポートするどころか、もしかしたら行くことすらできないかもしれない」
 唇を小さく噛みしめ、本当に悔しそうにそう口にする。
 清司が所属する陸上部のマネージャーを務めている彼女は、高校入学からずっと選手たちをサポートしてきた。
 清司と茜にとって高校生活最後の夏の大会は、とても大きな意味のある大会だ。
 ずっと支え続けてきた選手たちの、最後になるかもしれない雄姿を見ることすら叶わないとなると、ひどく落胆するのも無理はない。
 だが、落ち込んだままの彼女を見ているのもいたたまれないので、清司はどうしたものかと頭をフル回転させる。
「……そうだ!」
 そして、ぴんと閃いた。
「どうかした?」
 唐突に声を上げる彼を怪しむ茜は次の言葉を待つ。
「茜さ、中学のとき美術部だっただろ? 気分転換に、久々に絵でも描いてみたらどうだ?」
「絵を……?」
 話の筋が見えず、不可解な面持ちで清司を見つめる。
「俺は茜のために一番高く跳ぶって約束する。だから、茜は俺に最高の一枚を描くっていうのはどうかな……?」
 突然の申し出に彼女は驚いた表情をしたが、少し考える素振りを見せて真っ直ぐに清司を見つめた。
「いいわよ。その代わり……」
 言いかけて、不敵な笑みを浮かべる。
「約束を破ったら罰ゲームね!」
「お、おう! 受けて立つ!」
 提案をしたのは自分なのに、と思いながらも、少し元気を取り戻した茜を見てまあいいか、と一緒になって笑った。
 しばらくして、院内に面会時間終了のアナウンスが流れ始める。どうやらずいぶんと長い時間話し込んでいたらしい。
「んじゃ、そろそろ帰るわ。お互い頑張ろうな!」
 笑顔で病室を出ていった清司の足音が聞こえなくなったところで、ほう、と息をついた。
「結局ボタン掛け違えたままだっての」
 ふふっと笑みがこぼれる。
「でも……ありがと、清司」


 互いに約束をしてから早数日。
 茜はベッドから身を起こし、窓の外を眺めながら頭を働かせていた。
「うむむ……」
 手元にあるスケッチブックは真っ白なままで、一向に筆が進まずにいた。
「茜ちゃん、入るわよー」
 ノック音とともに声がして、茜を担当する看護師が入ってきた。
「あら、今日も考え中?」
 血圧を測る準備をしながら問いかけてくる彼女は、茜の従姉でもあった。
「うん、でも全然思いつかなくて……」
「こんな小さな病院の小さな病室に籠もっていても、なかなかいい考えなんて出ないわよねぇ」
「それを弥生お姉ちゃんが言う?」
 そんなやり取りをしながら、弥生はてきぱきと必要な検査を済ませていく。
「そうだわ、今日はお昼までだから、学校まで連れていってあげようか?」
「え、いいの?」
 茜はきらきらと目を輝かせる。
「清司君、あれから来てないんでしょ? 茜ちゃんがそろそろ寂しがるかと思って」
「もう、清司はそんなんじゃないってば!」
「はいはい、その言葉は何度も聞いたわよ。じゃあ、仕事が終わったらまた来るわね!」
 道具を片づけ、ひらひらと手を振って弥生は病室を出ていった。
(学校、行けるんだ……!)
 弥生の仕事終わりまでまだまだ時間はあるが、茜は早速外出の準備を始めたのだった。


 夏の太陽がぎらぎらと照りつけ、全身から汗が噴き出す。
 それでも、清司は走り、跳ぶ。
 定位置でしっかり踏み切り、バーを越えた身体がマットに沈んでいく。
「おーい、清司、そろそろ休憩しとけよー」
 近くで練習していた男子生徒に声をかけられ、清司はスタート位置には戻らず日陰に入った。
「水分補給しっかりしとけよ」
「ああ、サンキュ、淳史」
 二人並んで段差に腰掛け、冷たいスポーツドリンクを飲み干す。
「お前、最近いつも以上に練習してるけど、何かあった?」
「いや、何もねぇよ。ただ、誰よりも高く跳びたいだけだよ」
 タオルで汗を拭うと、清司は再び定位置まで歩いていく。
 走って、跳ぶ。
 やっていることは単純だが、走り高跳びはそう甘くはない。
 誰よりも高く跳ぶ。
 そのために、清司は改善点を探しながら何度も跳んだ。


 遠くから練習風景を眺めていた茜は、しばらくしてグラウンドから視線を外した。
「弥生お姉ちゃん、帰ろう」
「あら、もういいの?」
「うん、連れてきてくれてありがと」
 弥生の車に乗り込み、窓越しに空を見上げる。
「さては、何か思いついたのね?」
「うん、ちょっとね」
 早く戻りたくてうずうずしている様子が伝わってきて、弥生はくすりと笑った。


 そして迎えた大会当日。
 晴天に恵まれ、暑い日差しが照りつける競技場のあちこちで選手たちへの声援が飛ぶ。
 清司が参加する高跳びの競技は午前中に予選が行われ、無事予選を通過した選手たちがこれから始まる決勝に向けて準備していた。
 集合場所から少し離れたところで準備運動をしていると、清司の頬に何か冷たいものが触れた。
「……冷てぇ」
 見上げると、観客席には濡れタオルを持った茜が立っていた。
「おい、外出していいのか?」
「特別許可もらったからいいのよ。それより……」
 すっと表情が消えたかと思うと、彼女はとびきりの笑顔を見せてこう告げた。
「頑張れ、清司!」
 その一瞬だけ、時間が止まったように清司は感じた。
「……おう!」
 それからすぐに集合の合図が聞こえ、清司は背を向けて歩き出す。
「頑張って、清司……」
 彼を見送り、茜は小さく呟いた。


 数名の選手が揃ったところで、順番に競技を行っていく。
 そして、何巡目かの清司の番が回ってきた。
 定位置につき、すぅ、と深呼吸をする。
 笛が鳴り、少し間を置いて走り出す。
 踏み切りまで、三、二、一――ここだ、としっかり踏み切ると、清司の身体がふわりと宙を舞った。
 まるで鳥になったように身体が軽く、青空をどこまでも飛んでいけるのではないかという気分になった。
 その時間は一瞬であるはずなのに、いつも以上に長く感じる。
 どさっとマットに身体が沈むと、清司は慌ててバーを見上げた。
 自己最高記録よりも少し高めに設置されたバーはその場所にしっかりとどまっている。
 白い旗が上げられ、競技内容が認められると、わあっと声援が上がった。
 自己最高記録の更新、そしてその記録が一位に輝いた瞬間だった。


 競技を終え、待機場所まで遠回りして人気の少ない道を歩いていると、ベンチに座った茜を見つけた。
「おめでと、清司」
 清司に気づき、松葉杖をついて立ち上がる。
「ねぇ、私もちゃんと描いてきたよ」
 そう言って、茜はベンチに置いてあるスケッチブックを指差した。
「見ていいか?」
「……うん」
 清司はスケッチブックを手に取り、静かにページをめくっていく。
 下描きのページが続いており、最後のページをめくると――
「……これ、俺?」
 そこには、高跳びをする清司が描かれていた。
「一生懸命練習してる清司を見て、これしかない、って思ったの」
「茜……」
 清司には、約束を守ることができたら彼女に言おうと決めていたことがあった。
 その絵を見せられて、ますます言わざるを得ないと強く感じた。
 一瞬の間を置いて、その言葉を口にする。
「茜、好きだ」
 彼女は目を丸くしたが、すぐに細めてこう言った。
「……好きだよ、清司」
 太陽が傾き、空は茜色に染まっていく。
 徐々に二人の顔が近づき、そっと口づけるシルエットが地面に落とされた。

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